ベジタリアニズムについて


肉を食べない人はベジタリアンと呼ばれています。ベジタリアンとは単に「野菜を食べる人間」を意味する言葉ではありません。日本では「菜食主義」と呼ばれていますが、その語源はラテン語の「Vegetus」(活発、生命、力強い、などを意味する)にあります。西洋では、古代ギリシャのピュタゴラス学派の人々が肉食を拒否したコミュニティを形成していたことに習い、一九世紀までは肉を食べない人々のことをピュタゴリアンとも呼んでいました。現代のベジタリアニズムの元になったのは、英国ケントで一八四七年に創始された「ベジタリアン・ソサエティ」の運動です。ベジタリアンという言葉が普及したのも彼らのおかげです。「ベジタリアン・ソサエティ」は、もともとケントにあったホーセル夫妻が運営するベジタリアン病院から始まった運動です。初年度の会員数は四七八名で、翌年には「ザ・ベジタリアン・ミーティング」という会報を五〇〇〇部発行しました。
一八七七年には「ザ・ロンドン・フード・リフォーム・ソサエティ」が会員のアリソン博士によって設立され、「ベジタリアン・ソサエティ」のロンドン支部になりましたが、後に本部からは独立し、イギリスにおける二大ベジタリアン団体として成長しました。この二つの団体は一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて積極的に活動を行いました。マハトマ・ガンジーは、ロンドン・ベジタリアン・ソサエティのメンバーでした。また、本部の方にはバーナード・ショーが所属していました。二つの団体は一九六九年にはまた一つになり、英国ベジタリアンソサエティとして現在に至っています。
同団体は、一九七〇年代にベジタリアン向けの食品添加物や料理の研究部門を開設し、これは後にコードン・ヴァート料理学校へと再編されました。ここではプロのベジタリアン料理のシェフを養成しています。現在、イギリスの本屋にはベジタリアン向けの料理本がたくさん並んでいますが、これはベジタリアン料理がイギリスの大衆に広く普及している証拠です。当初、ベジタリアン・ソサエティの会員は肉、魚、鳥肉を一切食べませんでした。その後、ベジタリアンは各個人の基準によって肉以外の何を食べないか、何を食べるかを決めました。現在は、何を食べるベジタリアンかによってその呼称も様々に細分化しています。たとえば、魚を食べるペスコ・ベジタリアン、卵を食べるオヴォ・ベジタリアン、乳製品を食べるラクト・ベジタリアン、卵と乳製品を食べるオヴォ・ラクト・ベジタリアン、肉、魚、乳製品、蜂蜜を一切食べないヴィーガン、果物しか食べないフルータリアンなどがあります。
またベジタリアンとは言えませんが、魚を含む有機製品を食べるマクロビオティック、オイルを摂らないオイル・フリー、砂糖を摂らないシュガー・フリー、さらに様々な健康食マニアまで、現代では「ベジタリアン」という概念や呼称の幅は広くなっています。これらの様々なベジタリアンの共通性は何を食べないかという点にしかなく、必ずしも哲学やライフスタイルが一致しているわけではありません。
日本では宮沢賢治の菜食主義がよく知られています。彼は、『ヴヂタリアン大祭』という小説の中で、ベジタリアンとは「動物質のものを食べないという考のものの団結」であり、日本では菜食主義と訳すが「菜食主義者」よりは「菜食信者」という方が適切であると記しています。そして菜食信者には「同情派」と「予防派」の二種類があると論じています。「同情派」とは「あらゆる動物は生命を惜しむこと、我々と少しも変わりはない、それを一人が生きるために、ほかの動物の命を奪って食べるそれも一日に一つどころではなく百も千のこともある、これを何とも思はないでいるのは全く我々の考えが足らないので、よくよく喰べられる方になって考へて見ると、とてもかあいそうでそんなことはできないとかいう思想」と定義しています。一方の「予防派」とは、「これは実は病気予防のために、なるべく動物質をたべないといふのであります。則ち、肉類や乳汁を、あんまりたくさんたべると、リウマチスや痛風や、悪性の腫瘍や、いろいろいけない結果が起こるから、その病気のいやなもの、又その病気の傾向のあるものは、この団結の中に入る」としています。
さらに、菜食信者を「実行」の面から三つに区分しています。まず、獣、魚などの肉類はもちろん、ミルク、チーズ、バターなども一切いけないという人々。次にチーズやバター、ミルク、卵などならば命をとるわけではないから差し支えないという人々。最後に、いくら動物の命をとらないと言ってもそんなことは無理だから、どうしてもという場合は仕方なく泣きながらでも食べてもよい、しかし、普段はなるべく植物質のものを採り、命を大切にする精神を忘れないように心掛けるという人々です。宮沢賢治はこの分類でいうと「同情派」であり、実行の面では三番目の立場をとっています。宮沢賢治はこの思想に基づいて、動物や昆虫が登場する数多くの小説を書きました。例えば『よだかの星』は、よだかという鳥が生きるために他の生物を殺すのが嫌で嫌でたまらなくなり、ついには大空高くへ飛翔し続けて餓死して星になってしまうという、とても悲しい物語です。宮沢賢治は仏教思想の影響を強く受けていました。そして、人が殺生をしてまで食べざるを得ないことに、限りない悲しみを抱いていました。しかし、現実は厳しく、自分の健康のために肉を摂取せざるを得ない悲しい状況に陥ってしまい、泣く泣く食べたといいます。ところで賢治は『ヴヂタリアン大祭』の中で、肉、魚はもちろん卵や乳製品を拒む人々の多くは「予防派」の人々だと述べています。宮沢賢治は、「予防派」は動物の命よりも自分の病気や健康を大事にしている考えであるから、自己満足的とみなしていたのでしょう。しかし、もし賢治が「予防派」のように徹底した菜食主義を実践できたなら、ここまで食について苦悩することはなかったのではないでしょうか。
この「予防派」の人々のように肉、魚はもちろん卵や乳製品の摂取も拒む人々のことを、現代ではヴィーガン(Vegan)と呼んでいます。宮沢賢治が菜食を始めた一九一八年頃には、まだヴィーガンという概念は存在しませんでした。ヴィーガンとは、一九四四年に英国レイチェスターの「ベジタリアン・ソサエティ」のメンバーだったドナルド・ワトソンによって作られた造語です。彼は仲間と一緒に乳製品を拒むベジタリアンのグループを形成しましたが、他のベジタリアンと意見が合わず、分派して新しいグループを作りました。彼らは「Vegetarian」という言葉の頭と語尾をくっつけた名称ヴィーガンを名乗って、新しい活動を始めました。
ドナルドによれば、「ヴィーガンはベジタリアニズムの論理的帰結」なのだそうです。ドナルドは、一九四四年後半に、ヴィーガン・ソサエティを設立しました。その目指すところは、肉、魚介類、鳥肉、卵、動物の乳、バター、チーズ、蜂蜜などを除外した植物性食品を基礎にした食生活と、衣服や靴を含む動物製品、およびシルク、珊瑚のような昆虫類を使った製品なども一切使用しないライフスタイルです。それはいかなる形式であれ動物(生物)の搾取をなくした、分別ある人間社会を営むことが目的とされています。英国ヴィーガンソサエティのヴィーガニズムの定義は以下のようなものです。「ヴィーガニズムは食品、衣服、あるいは他のいかなる目的にせよ、動物に対するすべての残酷な扱い、搾取を拒否したライフスタイルと哲学を(実際的で可能な限り)追求し、そして、人間、動物、そして環境に寄与する動物に無害な代替製品の使用と発展を助長するものである」。
一九六〇年にはジェイ・ディンシャーによってアメリカ・ヴィーガン・ソサエティが設立されました。彼らはイギリスのヴィーガン哲学を継承し、さらにインド哲学の「Ahimsa」(アヒンサ)という考え方をとりいれました。アヒンサとは「non-injury(無害な)」という意味です。仏教には「殺生をするな」という教えがありますが、アヒンサは、たんに他の生物を殺さないというだけではなく、他の生物に対していかなる苦痛、損害、害悪を、「思考」、「言葉」、「行為」によって及ぼさない、という深い意味があります。ですからアヒンサとは他の生命を尊重し傷つけない憐れみと慈悲に基づく哲学であると言えます。そして、アヒンサは自己節制と自己統御の実践によってもたらされるものであるとされています。こうした哲学を取り入れて、ヴィーガニズムは、ただ単に動物性の食品や製品を拒否する政治的な行動哲学であるだけではなく、生命を尊重する慈悲の哲学であり、生命を傷つけず環境に優しい新しいライフスタイルを希求するエロコジカルな哲学に発展したと言えるのです。
したがって、「ただ植物性のものだけを食べる人」はヴィーガンではなく「完全なベジタリアン」と呼ばれています。つまり、ヴィーガニズムにとって重要なのは食生活だけではなく食生活を含むライフスタイル全体にあるからです。ジョアン・ステパニアクの本『ビーイング・ヴィーガン』(二〇〇〇年)によれば、ヴィーガニズムとは生命尊重の哲学であって、宗教や政治的理念ではありません。彼女によれば、アニマルライツの活動家の多くはヴィーガンだが、ヴィーガンにとって社会的政治的な実践行動は必ずしも不可欠なものではないといいます。アニマルライツの活動家すべてが必ずしもヴィーガンではないという現実も、上記のことを逆方向から証明しています。つまり、政治的理念において動物解放を行おうとする者が必ずしも動物好きである必然性がないことと同じ理由です。
私はヴィーガンでありかつアニマルライツの活動家であることが理想だと思います。なぜなら、ヴィーガンのライフスタイルは完全なる動物の解放が行われなければ実現できないと考えているからです。あるいはまた動物実験の問題がありますが、これは単に医薬品を使用しなければいいという問題ではありません。現実問題として医療を完全に拒否することはできないし、また、動物実験をせずに医薬品を作るための新しい指針と代替医療、またそのような方向へと進む社会啓蒙運動が必要だと思います。英国ヴィーガンソサエティは、ヴィーガンの定義において動物性食品、製品を「実際的で可能な限り」拒否すると述べていました。つまり、動物性食品や製品を食べない、使わないという選択肢がある場合には、そうすべきだということです。
実際、ヴィーガンになろうと思ってもすぐになれるわけではありません。肉や魚を食べないことは決断してすぐに行動に移せますが、乳製品や動物由来製品を食べたり使用したりしないことはそれだけでは実践できません。まず、どのような食品が乳成分を含んでいるか、どのような製品/素材が動物由来であるかを調べなければいけません。また、すでに所有している動物性製品は使用し続けるのか処分するのかなど、考えなければならないことが山積みになるからです。

チャボ
チャボ
私が肉食を止めた直接のきっかけは、チャボを飼い始めたことでした。ニワトリによく似たこの動物と暮らすようになって、ニワトリたちが食用にされるためにどんなに酷い扱いを受けているか、そして牛や豚やその他の動物たちを含む肉食全般について、初めて真剣に考え始めました。というよりも、肉食の意味に気付いたと言うべきでしょう。それまでも肉食の意味が何であるかは知っていたつもりです。しかし、気づいてはいなかったのです。ここが大事なところです。人間は、気がついて初めて実行に移すことができるからです。知識だけではそうはいきません。自分が食べている肉は、人間によって殺された動物の死骸の一部です。やきとりもフライドチキンも、チャボより少し大きい体をした仲間のニワトリの死骸なのです。ニワトリたちは養鶏場の狭い檻の中に閉じ込められ、成長したら殺されます。卵を採るためのメンドリも、年をとって卵を産めなくなると殺されます。豚や牛にとっても状況は同じです。人間に搾取され殺されるだけの運命です。彼らには天寿など存在しません。若いうちに殺されてしまうからです。彼らはただの食材とみなされていて、動物としての尊厳も与えられません。
肉食は、人間による残酷な行為が積み重なった上に成り立っているのです。肉食を止めるということは、肉や肉加工品をボイコットすることになります。それは、畜産業、食肉加工業そのものをボイコットすることにつながるのです。動物の死骸を使っているのは食肉だけではありません。毛、皮膚、骨、臓物、体液などが皮革業者やその他加工業者の手によって変型され、毛皮や皮革など様々な製品に化けています。そこで私は、動物由来製品を購入することは動物虐待産業への寄与につながるということに気づいてやめました。これも、野生動物を捕獲する狩猟業、家畜を飼育する畜産業から、加工・製造する製造業者、製品を販売する卸売/小売業者までをボイコットする政治的行為なのです。食料品店で販売されている卵や牛乳も、動物虐待を伴う製品なので買うのをやめました。チーズやバターなどの乳加工品も当然やめました。
私はこうして段階的にベジタリアンからヴィーガンに移行して行きました。実際、私自身、最初はこれらの製品の消費を完全にやめるのには少々困難を感じました。まず、市販のパン、ケーキ、菓子類には乳が含まれているし、外食すればピザやパスタ、さらにサラダにまでチーズが入っています。日本食では、麺類をはじめいろいろな惣菜の調味料にカツオ出汁が使われています。最初のうちはうっかり食べてしまって「しまった」と思うようなことがよくあります。しかし、この「しまった」が、やがて深い罪悪感に変化します。宮沢賢治が感じたように、食べることに対する悲しみが生まれるのです。しかし私は、そのような感情に苛まれながらも食べようとは思わないので、外ではそばやうどんを食べないことに決めました。これは比較的、最近のことです。肉や魚、卵や乳製品を食べることに対する罪悪感、これは自分の内部に生じる感覚であり、他人に説明できるものではありません。この感覚をあえて表現しようとすれば、「穢れ」の感覚に近いかもしれません。汚いモノに触れて自分が穢れてしまったと感じるときの、嫌悪感と罪悪感が混ざったような感覚です。
街にあふれる大量の動物由来製品から察するに、世の中には動物の生命を軽視する人の方が多いようですが、そのような人たちを相手にこの感情を説明したいとは思いません。肉食をやめた時点で、私の内部で、食についての個人的な倫理観が生まれたのです。これは自分にとって絶対的なものなので、これに従って食べるものや着るものを選ばざるを得なくなります。最初はかなり難しかったし、失敗することもありましたが、今ではこれが自分にとって当たり前のライフスタイルになりました。ジョアン・ステパニアクは、「ヴィーガンを目指す過程には完結というものがなく、永久に向上が続くのである」といった趣旨のことを書いています。生きるために他の命を奪うか、それとも餓死して死ぬかの二者択一ではありません。他の生命を出来る限り奪わない第三の生き方が可能であり、そのために何が出来るか挑戦していくことがヴィーガンのライフスタイルだと思います。幸か不幸か、現代社会では多様な食やライフスタイルを自らの意志で選択することができます。選択の可能性がある場合、私たちは動物の虐待を伴う選択肢をボイコットすることで、動物を生かす選択ができるのです。
「動物虐待のない事」を「Cruelty-Free」と呼びます。例えば、動物実験を行っていない製品や動物製素材を使っていない衣服などは「Cruelty-Free」な製品と呼びます。以前、ある毛皮反対デモに参加した時の事です。銀座の街角でミンクか何かの毛皮を着込んだ中年女性にデモ参加者の一人が毛皮反対のチラシを渡しました。すると、この中年女性は「人間は生きる為には他の動物を犠牲にしなけりゃいけないのよ」と吐き捨てるようにこう言ったのです。これは人間のまったく高慢で身勝手な考えではないでしょうか?他の生物は人間の為に生きているのですか?違うと思います。人間には地球環境を支配し、そこに住む生物たちを搾取する権利があるとでも言うのでしょうか?違うと思います。もちろん、人間が地面の蟻一匹(喩えです)殺さずに生きてゆく事は残念ながら困難です。しかし、もし、足下に蟻が一匹歩いているのを見つけたら、踏まずに歩く事はできるでしょう。簡単な事じゃないですか?もし、あなたが蟻の「生命」の事を考える事ができたら、また、蟻の身になって考える事ができたら、とても踏みつぶす事などできなくなります。これはとても素敵な事ではないでしょうか?どんな生物にもそれぞれの「生命」がある、と考える事が「Cruelty-Free」な生活の実践につながります。わたしは、できるだけ「Cruelty-Free」な生活をしてゆきたいと望んでいます。