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あとがき

人間が食べる肉は、穀物や野菜に比べてはるかに大量の無駄なエネルギーを必要とします。地球上で飼育されている牛の数は13億頭といわれていますが、これらの牛を育てるために地球上の3分の1の穀物と大量の水、そして広大な土地が費やされています。南米をはじめ後進国では、先進国へ輸出する牛肉の生産に必要な放牧地を開発するため、大規模な森林破壊が進行しています。もともと多様な動植物の宝庫である森林が、単一栽培の牧草地に替わることで生物多様性が大幅に失われます。やがて牧草地は不毛の砂漠に変ります。今ではサハラ砂漠やゴビ砂漠は、過剰牧畜による人工的砂漠であると考えられています。このように過剰牧畜は明らかに生態系破壊の原因となっているのです。さらにメタンは地球温暖化の原因の一つと言われていますが、家畜牛の腸から放出されるメタンは世界の年間放出量の16%をも占めています。肉食とそれを供給する家畜制度が莫大な量のエネルギーを浪費しており、地球規模での環境破壊の大きな要因であることは歴然としています。しかし、おかしいのは環境問題を語る人々の多くが畜産の問題には触れず、また依然として肉食をやめようとしないことです。肉食の問題を棚上げにしてエコロジーを説くのは偽善でしかありません。ただの金儲けを目的とした餌として「エコロジー」を標榜する企業家が多すぎます。最近「環境に優しいマンション」というような宣伝を新聞などでよく目にしますが、マンション建設自体が環境破壊であれば何の意味もありません。もっと根本的なところから改革しなければならないと思います。人間たちの意識の改革が必要です。人間が地球の独裁者となっている人間中心主義の考え方を捨てなければならないと思います。人間中心主義とは他の種に対する差別です。これは「種差別」(スピーシズム)と呼びます。「種差別」は西欧文化の根底にあるユダヤ・キリスト教的な論理です。もともと家畜制度の元凶はそこにあったのです。
『聖書』にはこう書かれています。「神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた」「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地を這うものすべてを支配させよう』」(「創世記」創造の第五日日本聖書研究会より)つまり世界創造の最初から、動物は「野生のもの」と「家畜になるもの」に分類され、それらすべての生物を支配する権限が人間に与えられたと言うので
す。何という人間中心主義の論理でしょう。人間は動物たちを「家畜」として奴隷化し、酷使し、搾取しています。これは動物に対する差別です。
西洋の社会学では、動物は古くから次の三種類に区分されています。(1)害獣(2)家畜(3)ペット(コンパニオン・アニマル)つまりペット以外の動物は、人間の食料として、または有害無益であるという理由で殺されます。
人間は動物たちを自分勝手な理由で殺しています。先日、テレビのニュース番組でこんなシーンを観ました。魚の養殖場に子グマが現れ魚を捕って食べたので、撃ち殺しました。すると、子グマを失った母親グマが凶暴化しました。人間を襲うおそれがあるからとして、母グマも地元のハンターの手で撃ち殺されました。食べるものがなくお腹をすかせた子グマが里に下りてきて、魚を捕って食べるのはごく自然なことです。人間側は「クマのせいで~円相当の損害を受け
た」と言ってクマを加害者扱いし、自分の生活がかかっているのだから殺すのはやむをえないと主張します。しかしそれは、クマの住む森を奪ってクマが里に下りてくる原因を作った事実を棚上げにした、人間側の勝手な理由に過ぎません。しかも、他の対応策を検討することなく、撃ち殺してしまうのです。はたして人間社会で泥棒を殺すことが許されるでしょうか。そもそもクマは泥棒ではありません。クマには何の罪もないのです。

著者
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動物たちは人間により、様々な目的で殺されています。動物実験で殺され、食肉用に殺され、毛皮を剥ぐために殺されています。
動物の最大の敵は人間であると言えます。しかし、動物たちは人間に抗議するでしょうか。復讐するでしょうか。
彼らはそのようなことをしようともしないし、またその能力もありません。
だから、動物の権利の保護を主張する人々は、彼らに代わって彼らの声となり力となり、動物を虐待し殺害する人間たちとその社会のシステムに対抗します。したがって動物の権利をめぐる戦いは、動物の代理人とその他の人間との間の戦いということになります。
SARS、BSE、鳥インフルエンザと、今や畜産はきわめてリスクの高い行為になりつつあります。そもそも劣悪な家畜制度から生まれた人為的な病である疑いが濃厚なそれらの責任を、人間たちは全て動物に転嫁しています。仮に新型インフルエンザが人間界に蔓延すれば何百万人の死者がでる、と言われていますが、その犠牲をはらったとしても毎日大量に殺されているニワトリたちへの謝罪としてはけして折り合う数とはいえないでしょう。今、肉食を止めることこそ最優先の課題だと思います。(2005年)

肉食禁止の歴史

これから述べる事柄は、ベジタリアンでない方にはあまり役に立たないかもしれません。現在の日本では肉を食べない人は少数派であり、一般社会から孤立した存在と言えます。しかし、歴史的に見ると、日本には肉食を禁止する考え方が古くからあり、それが常識として長らく保たれてきたという事実があります。肉を食べる人にとってはこの歴史は特に意味を持ちませんが、ベジタリアンにとってはたいへん重要なことです。なぜなら、そうした歴史を確認することで、日本という国の本来あるべき姿を確認できるからです。歴代の天皇は、七世紀以降、たびたび肉食禁止令を発令しています。江戸時代には徳川綱吉が肉食禁止令を出しました。それ以降は禁止令こそ出されていませんが、人々の心の中に「肉食=悪しきもの」という観念が刻み込まれました。肉食禁止令を出した最初の天皇は、天武天皇でした。律令国家体制を築いた天武天皇は、名実ともに「初代の天皇-スメラミコト」(遠山美都男『天皇と日本の起源』講談社)と言えます。そして、肉食禁止は国策の基本として定められました。以来、明治天皇の父である孝明天皇までは大筋から言って肉食を否定(少なくとも牛食に関しては完全否定)しています。これは重要な事実だと思います。ベジタリアンとしては、日本が再び肉食を禁止する国家に戻ってくれればと願うばかりです。
日本が肉食禁止の歴史を積み重ねてきた理由のひとつは、日本人が米を主食とする民族だったからです。天皇は現在でも宮中で田植えをしています。宮中の田で収穫された米は、新嘗祭で天皇家の祖神アマテラス大神に捧げられます。古来、天皇は米を司る祭司でした。つまり、米を主食とする民族の中心にある存在が天皇でした。大雑把に言うと、この天皇の勢力を中心とした米文化(定住性の稲作文化)に対立するものが、肉文化(非定住性の狩猟文化)です。この「米」と「肉」の対立が肉食禁止の歴史を生み出したとも言えるでしょう。では、天武天皇に始まる肉食禁止令が具体的にどのようなものであったかを見てゆくことにしましょう。
六七五年(天武四年)四月、天武天皇は「肉食禁止令の詔」を出しました。これは牛、馬、犬、猿、鶏といういわゆる五畜(仏教用語で「五畜」は「鶏、羊、牛、馬、豚」とも「牛、羊、鶏、豚、犬」とも言われています)の肉食を禁止しました。その理由としては、牛は田畑を耕す、馬は人を乗せて働く、犬は番犬となる、鶏は時を知らせる、猿は人間に似ているからだとしています。禁止期間は四月から九月までの農耕期に限定されていました。当時は耕作期に狩猟を行い、田畑を荒らす動物を殺して豊穣を祈願したり、雨乞いのために牛や馬を供儀にしたりという、残酷な土俗民間儀礼があったようです。ですから、耕作期に肉食を禁止するというのは、こうした野蛮な民間儀礼における動物虐待行為を禁止する目的もあったと言えます。もちろん天皇制国家としては、古い民間信仰を駆逐しなければならないという政治的使命もありました。
翌、天武五年には「放生令」が出されています。放生とは、捕った魚を水に返したり、飼っている鳥などを野に放つ行為です。「肉食禁止令の詔」と「放生令」はともに、「人間でも動物でも、命を大切にして死を重くみることに違いはない」(「涅槃経」)といった仏教の殺生戒に基づくものです。天武天皇は仏教に帰依しており、肉食禁止と放生によって功徳を積むことで、国の豊穣を祈願したのです。そして、この教えと抵触する狩猟や土俗民間宗教の野蛮な儀式を排斥しました。殺生を禁じる法令は七世紀後半以降、天平、延暦年間の頃まで数多く出されています。
この時代は、日本と同じく仏教の影響下にあった朝鮮半島の新羅、百済、高句麗でも動物殺生禁止令、狩猟漁猟禁止令、屠殺禁止令などが出されています。聖武天皇の時代、七三七年(天平九年)に大飢饉が起こりました。その時には禁酒、屠殺の禁止令が出されています。豊穣祈願を願って禁酒、屠殺の禁止令が出されたということは、それらが禍いをもたらすと考えられていた証拠です。七四一年(天平十三年)にも牛馬の屠殺禁止令が出されています。「牛・馬は人に代わって働いて人を養う大切なものだから屠殺することを許さず」と理由づけられています。また、毎月六斎日(仏教では毎月八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日を六斎日として精進潔斎を行った)には魚漁殺生禁止すべしと言われています。
七五二年(天平宝勝四年)、聖武天皇は病で重体になります。病気の快復を祈願して正月三日から十二月晦日まで丸一年間、天下に殺生禁止令が出されました。そして、四月には東大寺大仏開眼供養が行われています。このように、殺生は国家的な禍いであると考えられていたのです。この殺生禁止令は、魚を捕ることも禁止しています。当時、魚を捕って生計をたてている漁民がいましたが、彼らのために米が配給されています。この事実を見ても、いかに国家が真剣に殺生禁止に取り組んでいたかが分かります。同様の米配給令は、八〇九年(大同四年)にも出されています。七五八年(天平宝字二年)の「殺生禁止令」では、これまで天皇への献上品として特別に許可されていた狩猟民からの猪と鹿肉の献上を、以後永久に停止する旨が述べられています。
七六六年(天平宝字八年)には、狩猟や漁獲のために鷹、犬、鵜などを飼うことが禁止されます。また、肉、魚、蒜の貢納が禁止されています(蒜は、仏教では「五葷」の一つとして食べるのを避けています)。八八一年(元慶六年)には再び放生令が出され、諸国に放生池が作られました。
平安時代に書かれた日本最古の説話集『日本霊異記』には、聖武天皇の時代の仏教説話が数多く載せられています。その中には、殺生禁止時代の人々の動物観を彷彿させるものが数多くあります。以下にいくつか紹介します。
播磨国の濃於寺に、奈良の興福寺の僧慈応大徳がやって来て、法華経の講議をした。濃於寺の近くには猟師が住んでおり、幼い時から網で魚を捕り続けていたのだが、ある時、屋敷の桑畑で腹ばいになって「炎が追いかけてくる」と叫び出した。身内の者から助けを求められた大徳が呪文を唱えると、袴は焼けたが身は無事で済んだ。猟師は恐れおののき、寺へ行って大勢の前で殺生の罪を懺悔し、以後殺生は止めた。(上巻第十一)
大和国に生き物を殺して喜んでいる男がいた。男はある時、兎を捕まえてその皮を剥ぎ、野に放った。その後、男の身体中に悪性腫瘍が出来て皮膚がただれ、男は苦痛のうちに叫びながら死んだ。(上巻第十六)
河内国に瓜の行商人がいた。いつも馬に背負いきれないほどの瓜を乗せて売り歩き、馬が歩けなくなっても打ってこきつかったので、馬はいつも涙を流して泣いていた。そして、瓜を売り終わると、男はすぐに馬を殺していた。こうして何頭もの馬を殺した。後にこの男は湯の湧いている釜の前で眼玉が飛び出し、釜で煮られて死んでしまった。(上巻第二十一)
和泉国の男は、いつも鳥の卵を探しては採って食べていたが、ある時兵士がやって来て男を麦畑に押し入れた。すると麦畑は灰河地獄(熱い灰が流れている地獄)に転じ、男の足は焼け爛れて骨だけになってしまった。男は一日だけ生きていたが、死んだ。(中巻第十)
これらの説話とは逆に、カニやカエルなどの生き物を救ったために幸福が訪れた話も、『日本霊異記』には多く載っています。また、病気の商人が高貴な者に牛肉を授けると奇跡的に回復したという話や、餓死寸前の僧がオオカミの食べ残した肉片を食べて助かったが実は肉片は観音の化身だったという話などもあります。これらの説話はみだりに動物を殺す狩猟に対しての戒めとともに、薬効としては肉食が許容されていたという当時の状況がうかがえます。
以上の肉食禁止の発想の多くは仏教の思想に基づいたものですが、もうひとつ重要なものに「死穢」「血穢」を忌む神道思想があります。一〇世紀に成立した「延喜式」は律令の法典ですが、その中では「死、産、血」が「穢れ」として強く意識され、人と動物の死に発するものは「黒不浄」、出血にかかわるものは「赤不浄」とされています。そして、それらの「穢れ」を避けるための不浄期間の規定があります。例えば、人の死の穢れは三〇日、六畜(馬・牛・羊・犬・豕(イノコ)・鶏)の死の穢れは五日、六畜の産穢は三日という具合です。さらに、六畜の肉を食べることはすなわち死んだ動物の肉を食べることであり、これもまた強い「穢れ」とされ、不浄期間は三日と規定されています。日本では「延喜式」成立のはるか以前から、「穢れ」を避ける宗教的感性があったようです。古くは魏志倭人伝に、邪馬台国の風俗として、人が死んだ後の十余日間は肉食を避けるというものがあります。
神道はこうした古くからの「穢れ」観を、仏教の殺生禁止と結びつけました。こうした背景のもと、平安時代には宮廷仏教がさらに殺生禁止、肉食を否定する思考を強固にし、それが公家社会での共通認識となります。白河法皇は一一一四年に、京の町で小鳥や鷹を飼うことを禁じます。一一二五年には再び殺生禁止令を発布し、皇室や神社に献上する以外の魚の捕獲を禁じ、違反者の魚網を没収して焼却しました。また鵜飼いの鵜、狩猟に使われる犬、鷹、洛中で飼っている鳥たちもすべて解放したといいます。戦国時代、もともと狩猟民だった武士たちは殺生をする生業に従事し、また日常的に肉を食べていました。また、武具製造のために死んだ牛馬の皮を剥いで加工する皮革業も栄えました。しかし、権力を手にした武士たちは、公家と接近するに従って殺生禁止、肉食禁止という中央の常識への転向を余儀なくされました。そして、武家の重要行事のひとつであった鷹狩りや巻狩りを自粛することになります。巻狩りとは、山から追い立てられた猪や鹿などの動物を下で待ちかまえた武士たちが弓矢で狩猟する行事で、軍事演習の性格も兼ね備えていました。
鎌倉幕府は一二〇三年(建仁三年)、北条政子の指示によって諸国に狩猟禁止令を発布します。すでに殺生を悪、肉食を「穢れ」として厭う心性は、全国津々浦々まで浸透していました。狩猟民族の長ともいえる武士階級が自ら狩猟禁止を発布することで、殺生と肉食の排除はさらに徹底化されたといえます。民間では依然として動物の死肉の隠れ食いが行われていました。浄土教、法華思想といった鎌倉新仏教は、こうした食肉する下層階級の人々をターゲットに、「肉を食べても救われる」と布教しました。これは決して肉食を推奨するものではなく「罪人も救われる」という意味合いで、つまりすでに肉食は歴然とした罪悪として認識されていたことの証拠です。
一方、真言、天台といった旧仏教系は、これらの鎌倉仏教を痛烈に批判し、殺生すると地獄に堕ちるという殺生堕地獄観をますます強固に民衆に植え付けていきます。また幕府は、全国を漂流して悪人でも救われると説教する乞食姿の僧侶たちを容赦なく弾圧しました。ところで、庶民が米を常食とするようになったのは室町期の頃だと言われています。味噌汁や醤油といったものが普及したのもこの時代です。当時、米食は日本人の間に完全に浸透していたと考えられています。米食が民間レベルにまで浸透したと同時に、狩猟や肉食は人々の間から遠ざけられていくのです。
武家や将軍の力が高まると、彼らは天皇や公家社会が長年育んできた肉食禁断の思想を受け継ぐことになります。一五四九年(天文十七年)、イエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到来し、日本にカトリック・キリスト教を伝えました。南蛮人はキリスト教と一緒に牛肉食の風習も広めました。一時は将軍や大名たちも牛肉食を嗜んだと言われています。しかし、秀吉、家康はキリシタン禁止令を出し、弾圧の大きな理由として「牛肉食の慣行」を挙げています。江戸時代は石高制社会として米を至上のものと位置づけ、殺生、肉食を排除する平和な世界を築きあげました。徳川幕府は牛馬屠畜禁止令や肉食禁止令を出しています。江戸時代の反肉食文化の極限が元禄社会であり、徳川綱吉の「生類憐れみ」の政策です。
綱吉が狂気や酔狂で「生類憐れみ」の政策を施行したのでないことは、これまで見てきた日本の反肉食の歴史からも明白です。彼は聖武天皇以来の反肉食の伝統を、より徹底させたと言えるからです。塚本学『徳川綱吉』(吉川弘文館)などを参考に、綱吉の功績を見てみましょう。綱吉は仏教と儒教を尊びました。綱吉は仏教と儒教は「車の両輪のごとく崇敬するもの」だとしています。特に綱吉は儒学に深く親しみ、近臣諸大名に儒学を講じるほどでしたが、儒学のある部分については批判的でした。それは、儒教の祭で牛や羊などの動物の犠牲を捧げることでした。綱吉はこれを「夷狄の風俗」だとしています。このため、綱吉が孔子に供物を捧げる時は、「釈菜」という植物性食品が使われたといいます。一六八四年(貞享元年)、綱吉は「服忌令」(ぶっきりょう)を定めました。これは死亡した綱吉の実子・徳松の法事の後に出されたもので、親族の服喪期間を詳細に規定したものです。この中には「穢れ」の規定も含まれており、出産、傷や病気による出血、牛馬の死、牛馬や犬などの肉食、房事などを穢れとし、それらの「穢れ」に染まった者を不浄として、その不浄期間の規定も新たに設けられました。綱吉は古来の神仏習合思想における「穢れ」の思想と儒教の道徳観を結びつけて、綱吉特有の政策をとっていきました。一般に「生類憐れみの政策」とは、「生類」すなわち生き物についての様々な法令の総称です。一八六五年(貞享二年)、綱吉は江戸城中の調理に鳥魚類の使用を原則禁止します。ここでは肉については触れていませんが、そもそも江戸城中に肉料理はなかったようです。
同年、綱吉は浅草観音別当を犬殺害の咎で追放しました。また、精進日に鶴を捕獲した鷹匠に閉門を命じ、後にこの鷹匠は免職されています。一八六七年(貞享四年)、「病人、捨子、捨て老人、病牛馬の遺棄を禁止する令」が出されます。捨て馬はとりわけ厳しく取り締まられました。これは死刑に相当する大罪でした。同年、「犬愛護令」が出されます。これは、江戸市中の犬の毛色を登録し、見えなくなった犬は探し出すように命じられました。また当時、町中で牛車や大八車などによる犬の交通事故が相次いでいましたが、これも戒めました。同年、「鳥魚貝の食用売買い禁止令」が出されます。これは食用としての鳥や魚貝類の生体販売を禁じたものです。これに付随して、魚や魚貝類は放生すればよいが、鶏、アヒル、孔雀などのように野外に放すと生きていけない動物については飼育するようにと指示しています。また、鶉、小鳥、金魚、昆虫などの売買も禁止しました。綱吉の御触れは生類全般に及んでいました。そして、さまざまな事態を想定して細かく指示しています。例えば、当時は南蛮渡来の動物を見世物に出すことが行われていましたが、これについては、まず南蛮船からの生類移入の禁止、また見世物動物芸自体を大幅に規制、犬猫鼠などに芸を教えて展示することを禁止、猿回しを禁止、という風に逐一規制しています。また、動物の自然な姿に手を加えるのは不届きであるとして、馬のたてがみや尾の加工を禁止しました。
将軍家では代々鷹狩りの行事に親しんできました。しかし綱吉は将軍就任以来、鷹狩りをしませんでした。鷹狩りの行為が殺生であるだけでなく、餌指と呼ばれる鷹の飼育係が犬や小動物を捕らえて鷹の餌にしていたため、飼育段階からすでに殺生戒に反していたのです。一六九四年(元禄六年)、綱吉は鷹狩り制度自体を廃止しました。鷹は新島に放生し、鷹匠、餌指といった鷹狩りに関わる職業そのものも廃止しました。しかし、天皇家への鷹狩りによる鶴の献上だけは、その後も何らかの方法で存続していたようですが、綱吉はこれも一七〇六年(宝永三年)に停止してしまいました。これは歴史的に見てもかなりの英断だったと考えられます。一六九五年(元禄七年)には、犬皮製の鞠商売を禁止します。当時、蹴鞠で使われる鞠は犬の皮で作られていました。貞享四年に「犬愛護令」が出された後もしばらくは蹴鞠に犬皮が使われ続けていました。しかし、ここで正式に禁止されたわけです。一六九六年(元禄八年)、四谷と中野に犬収容施設が設けられ、捨て犬や野犬の収容が始まります。この時収容された犬は四万二一〇八匹でした。犬の殺害は、当時死刑とされています。
「犬公」と呼ばれた綱吉は、愛犬家ではなかったと言います。しかし、動物たちを虐待したり遺棄したりするのは道に反すると、綱吉は考えていたのだと思います。綱吉が死ぬと、生類憐れみの政策は一部を除き廃止されてしまいます。罰則が厳しかったからでしょう。しかし今から考えれば、それらの法律そのものの趣旨は殺生禁止を厭う日本人の思想や文化の面から考えてまったく正当なものだったと考えられます。
綱吉の政策が決して彼の個人的な気まぐれによるものでなかったことは、その後も殺生や肉食をタブー視することが日本人の心性として維持されていることからも明らかです。文化文正の頃、江戸市中には「ももんじい屋」という店が出来ました。ここでは、猪、鹿、クマ、オオカミ、タヌキ、サルなどの肉が売られていました。鹿肉は「紅葉」、猪肉は「山鯨」などと称されていました。こうしたことからも肉を堂々と売るのは憚られていたことがうかがえますし、大名行列はその店の前は「穢れる」ために避けて通ったと言います。日本人の一般観念の中で、長い間、肉食というものが後ろめたいものと考えられていたことは事実でしょう。その後、日本では幕末の開国によって一挙に肉食が推奨されることになりました。薩摩藩では昔から豚を食べる習俗があったと言われています。西郷隆盛は狩りが好きでしたし、血に飢えた幕末の志士達の多くは、肉食については積極的でした。
草間俊郎『ヨコハマ洋食文化事始め』(雄山閣)などを参考に、幕末の肉の許容の有り様をみてみましょう。黒船の船内では、生きた牛、羊、鶏、七面鳥などを飼っており、料理の度に殺して食べていたようです。ペリーは幕府の役人を招いて肉料理を食べさせました。開国後、横浜の居留地に住むようになった異人が困ったのは、牛肉を販売する者がいなかったことです。やむをえず、異人自らが香港やアメリカから牛肉を輸入して販売するようになりました。一八六〇年には、横浜のアイスラー・マーティンデル商会が日本で初めて牛肉を販売しました。そして六年後の一八六七年には、中川嘉兵衛という日本人の経営する食肉屋が誕生しています。公式には一八七一年(明治四年)に、明治天皇みずからが牛肉を食べて肉食を解禁したとされています。しかし、正式に古来の「肉食禁止令」を破棄するという詔勅が出たという記録はないようです。つまり、日本政府の方針として西洋化を推進するために肉食が推奨されたのでした。
天皇は日本政府の方針に従わざるを得なかったと考えられます。天皇の肉食についての報道が新聞に載ったのは、翌年のことでした。新聞には『我ガ朝ニテハ中古以来、肉食ヲ禁セラレシニ、恐レ多クモ天皇、イワレ無キ儀ニ思シ召シ、自今肉ヲ遊バサルル旨、宮内ニテ御定メコレ有リタリト云。』と書かれていました。この報道を見て、多くの日本人は肉食が解禁されたと考えたようです。これは日本人にとって大きな衝撃でした。二月、御岳行者が抗議のために皇居に乱入し、一〇名のうち四名が阻止されて死亡するという事件が起きます。彼らは西洋人の渡来以後、肉食が盛んになったせいで神の居所が穢れると主張していました。他方、さまざまな肉食賛美の言説が登場します。福沢諭吉は肉食を推奨しました。その理由は「健康に良い」というものでした。「なお人身を養うに菜穀と魚食と両ながら欠くべからざるが如し。故に今、智徳の等閑にすべからざるを論ずるは、不養生なる菜食家に向て、肉食を勧るに異ならず」(『文明論之概説』岩波書店)福沢は特に牛鍋を推奨しました。すき焼きやしゃぶしゃぶといった、血の見えない薄切り牛肉を使った日本独自の料理は、血の「穢れ」をできるだけ遠ざけようという苦肉の策です。つまり、肉とは血にまみれた動物の死骸であるという現実を「見ない」「考えない」で誤魔化すという日本的な肉食の許容です。
肉食の励行は軍隊でも取り入れられました。そして、日清日露戦争から帰還した兵士たちによって、肉食は茶の間に普及したといわれています。もちろん、こうした世情を疎んで肉食に反対する者もいました。石塚左玄もその一人でした。石塚左玄は日本陸軍薬剤監でしたが、ミネラルの重要性を説き「食物養生法」を唱えました。この石塚に学んだのがマクロビオティックの桜沢如一です。
さて、このように日本では明治になるまで肉食が公的には禁止されており、そうした反肉食文化の中で徳川三〇〇年の平和な世界が築きあげられたのです。狩猟時代、戦国時代、幕末、そして明治と、肉食が流行るのは必ず野蛮な戦争の時代です。肉食という血の「穢れ」を侵して、動物の殺生を行うことが人間の殺生にも繋がっているのです。この平和な日本が血で血を洗う幕末、明治に突入したのは、周知のように西欧の外圧でした。西欧列強の帝国主義に同調して、己の美しい反肉食文化を踏みにじって、肉食を始めた日本は道を誤ったのではないでしょうか。ところで、肉を食べている人の中には、そんなに何度も肉食禁止令が出されたということは、さぞかし日本では肉食が盛んだったのでしょう、という穿った見方をする方もいます。しかし、それは事実とは違うようです。
例えば、農林水産省の食糧受給表における日本人の戦後の牛肉の消費量(一九四六年から二〇〇三年までのデータ)を見てみましょう。この表では日本人一人当たりの牛肉の年間消費量は、昭和二一年が最も少なく四〇〇グラムです。工場畜産の発展と肉の大量消費時代をむかえ、牛肉消費量はその後増え続け、もっとも多い時で平成元年の七・五キログラムに達します。肉の消費量はごく最近になって増大したのです。戦後、米軍が進駐して牛肉食の需要が増えました。また、米国人が食べない牛の内臓や舌などを安くで仕入れ、それを利用した日本人向けの肉料理も生まれた時代です。しかし、それでも年間消費量は1960年代初頭までは1キログラムです。ということは、大正、明治時代はそれよりも少なく、時代を遡ればさらに少量であったことが想像できるはずです。とにかく、日本人の肉の消費量は現在と比較して昔は少なかったというのが公的な歴史なのです。これは素晴らしい歴史ではないでしょうか。では、なぜ現代の日本人はこれほど大量の肉を食べるようになったのか?当然、これはすべてアメリカを筆頭とする西洋の食文化の影響です。明治以降の日本が西洋化する過程において、西洋式は善である、従って「肉食も善である」という考え方が刷り込まれました。そして戦後、日本がアメリカに占領されて以降、アメリカ追従の方向性はさらに強化されていったといえるでしょう。
しかしアメリカでは同時に、PETAをはじめとする工業畜産や肉食に反対するアニマルライツの運動も盛んです。日本人はどうやら工場畜産の現実から目を背けてばかりで、問題に対処することを怠っているように思えます。これは肉を「穢れ」としてタブー視し続けてきたことの影響でしょうか。家畜制度を全廃させることが必要だと私は考えています。そのために天武天皇や徳川綱吉の過去に学び、肉食禁止令を復活させること。これが今の私の切なる願いなのです。

動物のための反戦

アメリカによるイラク攻撃が始まると、世界各地で「戦争反対」の声が上がりました。この声はネット上でも発信されました。ミュージシャンたちがこのメッセージを伝えるために署名を集めたり、コンピレーションCDを作ったりという動きもありました。その中で私は動物のために反戦を訴え始めました。古今東西、戦争の犠牲を被るのは民間人というのが世の常ですが、動物たちも同じく被害を受けています。それなのに人間は自分たちの被害で頭がいっぱいで、犠牲になった動物たちを思いやる余裕はないようです。人間が国家の私利私欲に動かされて始めた戦争によって、自然界に生息している動物たち、家畜として飼育されている動物たち、動物園や水族館で展示されている動物も含め、人間の思惑には何の関係も持たない動物たちが犠牲となります。家畜はまた食糧物資としても戦場へ運ばれます。
さらに、軍事利用される動物たちもいます。かつては移動手段としての軍馬が主でしたが、現在はそのほかの動物たちも、さまざまな軍務を負わされています。米軍は、イラクの生物化学兵器対策として、何千羽ものハトやニワトリを警報器がわりに使用しました。また、イルカが機雷探知に利用されました。米海軍海洋哺乳類プログラムによれば、シロイルカ、バンドウイルカ、ネズミイルカ、マゴンドウ、オキゴンドウ、ハナゴンドウ、カリファルニア・アシカ、オットセイ、トド、ハイイロアザラシ、ゼニガタアザラシ、ゾウアザラシなどが軍事目的で訓練されているようです。中でもバンドウイルカとカリフォルニア・アシカの能力が高いため、海軍がイルカとアシカによるチームを結成し、作戦を展開させています。彼らに課せられた主な任務は機雷の捜索、掃海、敵側のダイバーや不審船の警戒です。イルカにはエコーロケーションと呼ばれる音による対象識別能力が備わっており、この生物学的ソナーが機雷の発見に絶大な威力を発揮するのです。また人間のダイバーはサメに襲撃される危険がありますが、イルカはサメを巧く追い払うことができるため、人間よりも機雷除去に適しているとされています。イルカやアシカたちは音響追尾装置や様々な器具、ときには敵側のダイバーを攻撃するための武器を装着されて、米海軍の手先として働かされています。
イルカたちはいつも口元に笑みをうかべているような表情をしているので、あたかも喜んで任務を遂行しているように錯覚してしまう人もいるかもしれませんが、彼らは調教の結果、条件反射で行っているだけで、実際には自分に課せられた任務の意味などもちろん理解していません。米軍は、彼らに極上の食事を与え健康管理の行き届いた環境で丁重に扱っていることを主張していますが、結局は人間にとって危険が大き過ぎる仕事をやらせる「道具」として彼らを利用しているに過ぎません。この他にも米軍は、サメ、エイ、カモメ、軍艦鳥、鵜、鳩などを訓練して使っています。

ハトを調教して長距離飛行の速さを競わせる鳩レースと呼ばれる競技がありますが、このレース鳩はもともと伝書鳩や軍用鳩から発展したものです。伝書鳩は欧米では古くから軍隊や新聞社で利用されていました。第一次大戦中、イギリス軍は約一〇万羽の鳩を駆り出しました。敵の攻撃で火傷を負いながらも味方の陣地に情報を運んで息絶え、勲章を受けた鳩もいたそうです。
日本では一八八六年(明治一九年)に浅草公園の鳩を捕獲し、「使鳩法試験」を行ったのが鳩の軍用化の始まりと言われています。一九一九年(大正八年)には「伝書鳩調査委員会事務所」が設立され、それ以降、伝書鳩愛好家の組織などもできて全国に普及しました。電信が壊滅した関東大地震の際は、背中や足に管を付け、新聞原稿やフィルムを運ぶ伝書鳩が活躍したといいます。大平洋戦争中は民間から奉献されたレース鳩も含め、多くの鳩たちが戦場に送られました。戦時中は各地の動物園で「軍馬、軍用犬、軍用鳩の慰霊祭」が行われており、このことからも戦死した軍用動物たちの数の多さがうかがい知れます。また内地での空襲が激しくなると、動物園の動物たちは「治安維持」を理由に射殺されました。

動物のための反戦
動物のための反戦

人間と動物たちの平和な共存関係は徐々に破壊されていっています。寺社仏閣で参拝客から与えられる餌に鳩が群れる光景はなじみ深いものです。しかし最近は各地で、鳩への給餌が禁止されるようになってきています。近隣住民からの苦情や、石原東京都知事によるカラス虐待に次ぐハト虐待政策などがその原因です。人間の作り出した劣悪な動物飼育環境に端を発する鳥インフルエンザなどの人畜共通病が蔓延していることも、人々が鳩との接触を恐れるようになった理由のひとつです。かつて人間にとって利用価値があった時代には鳩は平和のシンボルとみなされ愛されていたのに、その価値がなくなるやいなや駆除を助長する意見が優勢になりました。
都会で一番多く見かけられる種類の鳩はドバトです。もともとカワラバトという種類の野生のハトでしたが、人間により飼育されはじめたもののいつの頃からか再び野生化して都市に棲みついたのがドバトなのだそうです。つまりドバトは野生のキジバトなどとは違い人間の手で作られた種であるから、人為的な都市の生態系に適応していると考えられます。ドバトは集団で行動するのでふん害が問題視されていますが、都市の野生動物である彼らにとって街の中の建物はすべて林や森に等しいのです。人間は、都市部での野生生活に彼らを適応させてしまった責任をとって、駆除どころか反対に手厚く保護する義務があるのではないでしょうか。鳩たちにとって社会が今後ますます住みにくいものになってゆくのは明らかです。この可憐な鳩たちの運命を考えると、暗澹とした思いが込み上げてきました。