動物の権利を主張するアニマルライツ運動は、十九世紀のイギリスで始まったとされています。麻酔を用いずに行われていた科学研究目的の動物実験に対する抗議運動が、その始まりでした。一九六〇年代から七〇年代にかけて欧米で人権運動や環境保護運動が盛んになるにつれ、動物の権利運動も活発になりました。一九七五年に出版されたピーター・シンガーの『動物の解放』(戸田清訳/技術と人間)は、動物実験、工場畜産、スポーツや毛皮収穫を目的とした狩猟などの実態を明らかにし、動物の権利、種差別、ベジタリアニズムなどについて哲学的に論じた名著です。この本は「アニマルライツのバイブル」として高く評価され、その後のアニマルライツ運動に大きな影響を与えました。
シンガーはオックスフォード大学で倫理学と社会哲学を専攻する大学院生でしたが、同級生のリチャード・キーシェンを通じてベジタリアン・コミュニティの人々と出会います。彼らと討論するうちに、「動物を食べることによって、私もその一員である人類による他の生物の組織的な形態の抑圧に加わっていることを、確信するようになった」(同書)と書いています。シンガーは「動物への虐待に反対している人びとは、ベジタリアンになることまではしないものである」が、べジタリアンになることこそが重要なのだと述べています。「菜食主義(ベジタリアニズム)は、ボイコットの一形態なのである。ほとんどのベジタリアンにとって、ボイコットは永久的なものである。なぜなら、いったん肉を食べる習慣を断ち切ってしまえば、彼らはもはや、とるに足らない食物への欲望を満足させるために動物を屠殺することを承認することはできなくなるからである」(同前)
私はこれを読んで共感を覚えました。動物愛護や動物の権利を提唱する者は、前提としてベジタリアンであることが必要だと思うからです。「ベジタリアンになることは、たんなる象徴的なジェスチャーではない。またそれは、われわれ自身を世界の醜い現実から隔離することではないし、われわれのまわりの残虐行為や大虐殺に責任をとらずに自分だけいい子になることでもない。ベジタリアンになることは、ヒト以外の動物の殺害と、かれらに苦しみを与えることの両者に終止符をうつためにわれわれがとることのできる、もっとも実践的で効果的な手段なのである」(同前)シンガーが指摘しているように、すべてのアニマルライツ運動家がベジタリアンであるとは限りません。
シンガー自身は当然べジタリアンだと思われますが、本書によると「甲殻類と軟体動物の間のどこか」で線引きをして食べる基準を決めているようなので、ヴィーガンとは言えません。ここで思い出すのは、ニュージャージーに住むベジタリアンの知人が来日し、一緒に食事をした時のことです。彼は確かエビの天ぷらを食べていました。これはシンガーの影響ではないでしょうか。あるいは、シンガーの説を受け入れているベジタリアン一般の影響かもしれません。いずれにせよ、ヴィーガンであればエビを含む魚介類は一切食べません。しかし、食べてもよい生物と食べてはいけない生物を区別する科学的根拠はどこにあるのでしょうか。ベジタリアンもヴィーガンもみな、なるべくすべての生物を傷つけずに生活したいと願っているはずです。
ところで、アニマルライツやベジタリアニズムに対する批判に、「動物に権利があるのなら植物にもあるはずだ」とか「動物が苦痛を感じるのと同様に植物も苦痛を感じるのだから、植物を食べるのは間違っている」という類のものがよくあります。もちろん植物も生きていることには間違いありませんが、これらの問いはナンセンスだと私は考えます。シンガーも動物と植物を同列に論ずることは妥当性を欠くとし、植物は倫理的配慮の対象とはならない、と主張しています。私は、植物が倫理的配慮の対象とならないという点には同意できませんが、それでも植物の生命現象は動物のそれと異なるものであると思います。また「植物」とひとくくりにしていますが、樹齢数千年の大木を切ったり熱帯雨林を破壊したりするのと、庭の植木を剪定したり芝を刈ったりする行為とでは、重みが全然異なるでしょう。
この問題については様々な議論がありますが、大事なのは、植物を取り上げてベジタリアンを批判してくる人たちの中には、実際に植物の生命について真剣に考えている人などおらず、彼らの目的は単にベジタリアンに対する嫌がらせであるということです。植物に生命があるという事実は、動物を殺して食べてもよいということには決してつながりません。地球上の生態系において、動物と植物はそれぞれ異なった役割を担っています。植物は、日光、空気、水、大地の養分を糧として自らエネルギーを生産する「生産者」です。これに対して、動物は自らエネルギーを生産できないため、植物を食べることで生かされている「消費者」であるといえます。動物には肉食性や雑食性がいますが、これらの種の数は草食性の動物に比較するとわずかです。人間は雑食性ですが、何を食べるかを選択できる状況では倫理的配慮が可能であるという点において、他の雑食動物と異なります。