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Chicken Liberation

【チキン・ルーシーの逆襲】

「みんな、一刻も早く動物の楽園が生まれることを望んでいます」「地球上が、人間に怯えることなく、いろいろな動物でいっぱいになるようにと」チキン・ルーシーの言葉 楳図かずお「14歳」より

楳図かずおの「14歳」は、家畜制度、動物虐待、環境破壊などについて警告を発した大変予言的な物語ではなかっただろうか。
・・・近未来、科学技術は飛躍的に発展し人類は何不自由のない生活をしていた。しかし、それは地球環境を破壊し、他の生物の犠牲の上に成り立ったものであった。ほとんどの動物はすでに絶滅しており、人間はクローン肉を培養して食糧にしていた。地上は大気汚染で住めないので人間は人工太陽が輝く地下都市に住んでいた。
ある時、食肉施設のクローン肉培養タンクの中に浮かぶ一片の人工ササミ肉が突然変異を起こしニワトリ人間が生まれる。彼こそチキン・ジョージだ。
それを最初に見た食肉作業員はこう言う。
「おまえなんか人間に食べられる為に生まれてきたのに!」
しかしチキン・ジョージは天才科学者となり、動物の救い主となる。
チキン・ジョージはこう宣言する。
「わたしの知るところによると、わたしはすべての動物の怨念が集結して生まれた!! その目的は、すべての動物を救うため!!」
チキン・ジョージは「動物の代表」としてあの世からやって来た。そして、人間の遺伝子だけを破壊するウィルス性生命体などを使って人類への復讐を目論む・・・。
やがてチキン・ジョージは人間に恋をしてしまい人類への復讐を断念せざるを得なくなる。さらに、人類が絶滅してしまうと動物たちも生存できなくなってしまうという事が明らかになるのであった。皮肉にも生物は相互依存しながら生物多様性によって地球が維持されているのである。

「動物の代表」として人類に闘いをいどむチキン・ジョージはまさに過激なアニマル・ライツ思想を体現したかのようなシンボリックな存在であるともいえる。しかし、その闘争が挫折してしまう要因となったのは彼の中に潜む「人間性」がめざめてしまったからである。
半獣半人の姿で描かれるチキン・ジョージは「動物の代表」であろうとしながらも「人間中心主義のシステム」との間で葛藤するアニマル・ライツの姿とも読み取れるかもしれない。
一方、ジョージが知能を高くしたニワトリの伴侶チキン・ルーシーの方こそ「人間中心主義のシステム」をことごとく破壊しようとする動物たちの怨念に満ちている。チキン・ルーシーこそ動物にとっての救世主になるはずであったのだが・・・。

2007年1月11日、宮崎県の養鶏場で鳥インフルエンザが発生した。検査の結果インフルエンザH5型のウイルスが検出された。日本での発生は2005年夏以来の事だ。当局はマニュアルに沿って養鶏場の数万羽の鶏を全て殺処分した。1月23日には宮崎県の別の養鶏場で2例目の鳥インフルエンザが発生した…。
2007年1月13日付けのヘラルド・トリビューンによると、香港のショッピング街で六羽の鳥が死んでいるのがみつかり、検査の結果、鳥インフルエンザ・ウィルスによるものとわかった。この鳥は通常は田園に生息する珍しい種類のもので、どうやら香港の仏教徒たちが行っている「放生会」という宗教的儀式の為によく使われるものだと判明した。この鳥は通常何羽かまとめて鳥籠に入れられて運ばれるので一羽が感染すればたちまち他の鳥たちにも感染してしまう。
「放生会」というのは仏教の不殺生の戒律に基づき、飼っている鳥などを放して自由にするというもので、古い時代からの伝統的儀式である。
香港では2006年に年間50万羽から60万羽の鳥が放生会で放されたという。大半はペット・ショップから買ってきた鳥を放すようである。ペット業者が店の鳥を放すのならまだ良いが、店からわざわざ買うのではペット産業を繁盛させる事で新たな動物搾取と虐待を助長する事になってしまう。また、ペット・ショップで買ってきた鳥を野生に放すと多くはすぐに死んでしまうともいうから可哀想な事である。これでは「放生会」の持っていた生命尊重、動物愛護といった本来の主旨に反しているのでははあるまいか?また、鳥インフルエンザの伝播という点からいうと香港当局は鳥が移動して危険なのでこの儀式を止めるように警告している。

周知のように鳥インフルエンザの脅威はウィルスがヒトに感染して 新型インフルエンザウィルスに変異する事だ。その為に素早い封じ込め作戦がマニュアル化されている。だが、結局、大量の鶏を殺すだけの対処法はいかがなものか?むろんそうするのは一番安上がりな方法だからである。
ところで鶏は人間の食用の為に最も大量殺戮される家畜動物ではないだろうか?大多数の人間にとって彼らは人間に食べられる為に生まれてきたただのモノなのだ。彼らは何の尊厳も与えられずモノ扱いされる。鶏の種の中で僅かなものだけがペットや鑑賞動物としてかろうじて生き伸びられるぐらいだ。
こうしたまったく絶望的で悲惨な境遇にある鶏たちを襲った新たな脅威が鳥インフルエンザである。彼らが病気に感染して自然死するのならまだ自然の法則にかなったものと言えるかもしれない。しかし、彼らは人間たちへのウィルス感染が心配だ、という理由で捨てられたり殺されてしまうのであるのだ。
人間は自分たちの世界に都合の良いように動物たちを利用し搾取し虐待して用済みになれば簡単に殺してしまう。私はいつも動物の殺処分のニュースを聞くたびにやり所のない怒りに震える。

日本の鳥インフルエンザは過去の発生状況から主にアジアの劣悪な養鶏場で発生した鳥インフルエンザが渡り鳥を介して日本に上陸したとされている。
国際食糧農業機関などの資料によると、アジアでは、過去40年間に「畜産革命」がおこり、とりわけ養鶏と養豚が急激に拡大した。アジアの養鶏産業は、世界の生産の約40%に相当する約90億羽が飼養され、鶏肉生産ベースで世界の27%、2,000万トンと世界の主要な生産地域になっている。
これまでウイルスに感染して発病するのは、鶏や七面鳥等の家禽に限られ、野鳥は感染してもほとんど発病しないとされていた。だが、05年には中国で渡り鳥が数千羽も死んだ。その発症のメカニズムはまだ解明されていないが、BSEと並び家畜産業の副産物である可能性は拭えない。そうであるならば人災である。もはや養鶏産業の廃止、家畜制度全廃しか鳥インフルエンザから人類が逃れる究極的な方法はないであろう。
鶏の寿命は何年ぐらいだろう。自然な状態で5年から10年、まれに20年ぐらい生きる鶏もいる。
だが、養鶏所の鶏たちに自然な寿命はない。「人間たちに食べられる為」にわざわざ生まれて狭い檻に押し込まれて毎日卵をとられて産まなくなったら無惨に殺されるだけの短い一生である。
私はその鶏たちの事を考えると涙が溢れ人間たちに対する限りない憎悪が生まれる。(2007年1月29日)

Animal Liberation and Social Revolution

ブライアン・A・ドミニック著「Animal Liberation and Social Revolution(動物解放と社会革命)」は1997年に地下出版された小冊子です。Veganarchism(ヴィーガン+アナキズム)の観点から、動物の解放と社会革命の同時進行が必要だと述べています。人間社会の様々な抑圧、人種差別、性差別、年齢差別などと動物に対する種差別は同等であり、また、肉食を止めろとただ唱えるだけでなく、肉食文化を支える商業資本主義社会そのものを破壊せよ、というのがその主旨です。
ベジタリアンが食べている野菜や穀物も資本主義社会の商品の一つである、という事実をしっかりと見据えたアニマルライツの視座が必要です。我々がいやおうなく組み込まれているこの社会は動物虐待というシステムを育んでいる社会であり、我々が消費したお金や払った税金は巡り巡って動物虐待に間接的に結びついているかもしれないという危惧を忘れてはいけないでしょう。

小冊子は著作権フリーなので以下のサイトなどからダウンロードできます。
http://www.freegan.at/ar_social_revolution.htm

ascona and vegetarianism

菜食主義アナーキスト グスト・グレイザー 1908年。 写真コンラッド・クレイン
菜食主義アナーキスト グスト・グレイザー 1908年。
写真コンラッド・クレイン

【アスコーナ文化とベジタリアニズム】

スイスやドイツは動物愛護、環境保護に昔から取り組んでいます。その始まりは前世紀初頭のさまざまなエコロジー運動に遡る事ができると思います。
19世紀後半のヨーロッパは、ドイツを例にあげると、1890年から1910年の間に急速な産業化が行われ農業国から工業国へと大転換しました。しかし、ブルジョア中産階級の中にはこうした産業化を厭う急進的な反近代主義が起こりました。
「文明」や「産業」に対抗するものとして「自然」や「郷土」といったものが新たな価値観を持って自覚され、そこにはエコロジー運動やナショナリズムへの萌芽があったといえるでしょう。知識層の人々は思索、健康、やすらぎ、新しい生活などを求めて大都会から離れて自然の中ヘ脱出しました。
スイスの南端、イタリアとの国境近くの風光明媚なアスコーナはもともと19世紀後半からアナーキストや神秘主義者が集まる独特の土地でした。1869年にロシアのアナーキスト、ミハイル・バクーニンがアスコーナ近郊に住み始め、また1889年には自由主義の政治家アルフレート・ピオーダがアスコーナに神智学者のコロニーを建設しようと試みました。
その頃、オーストリアのフェルデスに自然療法家アーノルド・リクリが主催する日光浴サナトリウムがありました。この施設では、「太陽博士」と呼ばれていた太陽崇拝者のリクリが独自に開発した食事法、日光浴、裸足で過ごす事などの日課を通じて病気治療が行われていました。
リクリは「科学を信奉する医師たちからの迫害に煩わされながらも、『神経症の世紀』といわれた時代にあって、文明に反抗し、自然治癒法に即した医療術を編みだした。」(関根伸一郎「アスコーナ 文明からの逃走」三元社)といわれています。
1900年、この施設に滞在していたベルギーの資産家の息子アンリー・エダンコヴァン、ユーゴスラヴィアで音楽教師をしていたイダ・ホーフマン、そして、オーストリア軍中尉のカール・グレイザーらがミュンヘンで再会し、「現代の大都市の堪えがたさを確認し合い、いかにしてこの大都市から脱出するか議論を重ねた」といいます。(マーティン・グリーン「真理の山 アスコーナ対抗文化年代記」遠藤英樹訳。平凡社)
彼等はどこかに土地を求めてコロニーを作る事が解決にいたる道だと思い、二手に分かれて旅に出ました。そして最終的に辿り着いたのがアスコーナでした。
彼等はアスコーナの小高い丘「モンテ・ヴェリタ(真実の山)と名付けられた」を買い求めました。しかし、具体的な土地利用については意見が分裂しました。
ホーフマンとエダンコヴァンは土地を開墾、整備してお金持ちを対象にした自然療法サナトリウムを創設する考えでした。そして、ゆくゆくは、学校、芸術学校、果樹園、生活品のリフォーム工場などを建設する計画でした。彼らはこうした活動を通じて経済的自立をはかる事が重要だと考えたのである。
一方、グレイザーら(カールと弟のグスト・グレイザー)はホーフマンらの意見は「資本主義的」だと断固反対しました。軍人だったカールは軍隊の駐屯地ですでに「無拘束」というアナーキスト同盟を結成していた急進的なアナーキストであり、個人の財産所有を否定し、コロニーに文明の利器を一切持ち込むことを禁止しようと考えていました。
カールはモンテ・ヴェリタはフランスの空想的社会主義者シャルル・フーリエの思想に基づいたものになるべきだと主張しました。(遠藤氏前掲書)(1772年に生まれたフーリエは「四運動の理論」という本の中で自由恋愛にもとづく理想社会を構想しました。後にシュルレアリズム芸術運動を行ったアンドレ・ブルトンがフーリエの思想を高く評価していた事は知られています。フーリエの思想はアナーキーなものでしたが彼は美食家でありましたから菜食主義の理想とは無縁な革命理論だったわけです。)
カール・グレイザーはアスコーナを離れて近くの土地で独立しました。彼は手作りの家具や生活品を使って質素な暮らしを始めました。弟のグストも兄に劣らぬ束縛を何よりも嫌う自由人であったのでアスコーナを去りました。
ホーフマンとエダンコヴァンはアスコーナの丘に様々な施設を建設し、お金持ちの客をヨーロッパ中から呼び寄せてサナトリウムを運営しました。そこでは厳格な菜食主義が義務づけられ、酒、乳製品、皮革製品などの使用も禁止されていました。また、リクリの日光療法に似た裸体での農作業、日光浴などの日課もありました。

グスト・グレーザーはアスコーナの人々の中でもある意味で最も興味深い人物です。
グストはハンガリーのクローンシュタットで生まれました。父親は裁判官でした。グストはギムナジウムを退学して芸術家の勉強を始めました。彼はいつも変わった格好をして「肉や調理された食物をどうしても食べず家族や友人を困らせた」(グリーン前掲載書)といいます。
前述のように、グストは兄のカールらと一緒にアスコーナの丘へ自由の天地を求めて旅立ったわけですが、それも挫折し、アスコーナを離れた後、1901年にクローンシュタットに戻ったグストは徴兵を拒否して五ケ月間投獄されてしまいました。
出獄してからは詩を発表して、再びアスコーナに戻ります。一旦はアスコーナを離れた身でしたが、アスコーナは彼にとって居心地の良い場所だったのでしょう。
ホーフマンとエダンコヴァンが作ったモンテ・ヴェリタの立派な施設に暮らす事はありませんでしたが、グストはアスコーナの丘の周辺にあった岩穴に住んで人から貰ったものや木の実を食べて生活しました。
彼の家には寝る為に地面に敷いた数枚の板と、果物の種を投げ入れる飼葉桶しかなかったといいますから極めて質素な自然人の生活だったと想像できます。
しかし、グストはアスコーナに定着する事はありませんでした。彼は再びアスコーナを離れて放浪にでかけました。1912年にグストはライプチヒのワンダーフォーゲルのグループに招かれました。
当時、ワンダーフォーゲルの運動はとても活発になっていました。グストの詩は彼等の機関誌に掲載されました。グストは詩、絵画、ダンス、講演、執筆、朗読などを通じて自己表現しましたが、それは素朴で時には笑いを誘うものだったといいます。また、グストは「老子」の翻訳にも没頭しました。
彼は毎日曜日に集まってくる人々に話をする「森の瞑想」を行っていましたが、戦争が勃発すると彼の立場は難しいものになり、 シュトゥットガルト当局は「森の瞑想」を禁止しました。その後、この集会は滞在中の家で行われるようになりましたが彼は再び逮捕され軍の拘置所に入れられてしまいました。
グストは「祖国」「文化」「キリスト教」を三つの敵とみなし、戦争反対の闘争を呼びかけ、その後も何度も逮捕されました。

ヨーロッパで戦争が活発になると、心の平穏を求めてこの社会から脱出したいと望む「生活改革」運動の若者たちが台頭しました。ドイツにはいくつかの菜食主義コミューンが出来、グストは彼等にとってまさに手本となる存在でした。
1921年、グストは若者たちとコミューンで生活を始め、彼等は「青年民族共同体」と名乗り手作りの生活用品のワークショップを始めました。しかし、1926年までにグストは「政治的な破壊活動分子」として全ドイツから追放され、再び放浪生活に戻ったのです。
グストはアスコーナの多くの人々同様にもちろん菜食主義者でした。
「彼はどのような形態であるにせよ生命というものに畏敬の念をもっており、自分の生命維持のために、殺されたものを食べることを拒絶した」(同前)
グストはヘルマン・ヘッセの東方に巡礼する秘密結社の不思議な話を書いた小説「東方巡礼」に登場するレーオという人物のモデルになった事で有名になりました。

ヘッセはアスコーナを訪れていた文化人の一人でした。ヘッセとグストは実際に交流があり、ヘッセはグストに憧れていたのです。ヘッセは「東方巡礼」の中でレーオをこんな風に書きました。「…どんな動物でも彼になついた。私たちはたいていいつでも、レーオゆえについて来た犬を一匹つれていた。彼は鳥をならし、チョウチョウを誘いよせることができた。東方へ彼をひきつけたのは、そろもんのかぎによって鳥のことばを理解したいという願いからであった」(高橋健二訳。「ヘルマン・ヘッセ全集 8」新潮社)また、次ぎのようなグストを彷佛とさせるレーオの描写があります。「その人は私のそばを通り過ぎた。開いた青いシャツから首をまる出しにして、無帽の頭を快活にはずませていた。その姿は美しく陽気に夕暮れの小路をふわりと下って行った。薄いサンダルか運動靴をはいているのか、ほとんど足音もきこえなかった」(同前)「それは乾燥果実で、幾つかのスモモと半分に割ったアンズだった。彼はそれをつぎつぎと二本の指でつまんで、一つ一つちょっとおしつけたりさすったりして、口に入れ、長い間かんで味わっていた」(同前)

実際のグストは長髪でヘアバンドをして袋地の上衣をまといサンダルばきで野菜や果物の入った袋を持っていたといいます。ヘッセはレーオを動物たちの友達で果物を好んで食べるフルータリアンとして描いたのです。グストが発行した絵はがき(それは森の中で丸い食卓を囲んで食事をしているところが描かれている)の裏にはこんな風に書かれていました。「来たれ、同志よ、私たちがごちそうするのは、やさしいものたちの苦しみから生まれたものではない。/光あふれる世界との友愛が、親密な木々が、私たちのためにそれをあつらえてくれたのだ。/身の毛もよだつあらゆる苦悩から抜け出たいとは思わないか。来れ、人間にふさわしい食事を私たちと分かちあいたまえ」(ウルリヒ・リンゼ「生態平和とアナーキー」内田俊一/杉村涼子訳。法政大学出版局)

グストは後世のエコロジストやヒッピーに多大な影響を与えた菜食主義アナーキストの父と言えるでしょう。(2006年)