ascona and vegetarianism

菜食主義アナーキスト グスト・グレイザー 1908年。 写真コンラッド・クレイン
菜食主義アナーキスト グスト・グレイザー 1908年。
写真コンラッド・クレイン

【アスコーナ文化とベジタリアニズム】

スイスやドイツは動物愛護、環境保護に昔から取り組んでいます。その始まりは前世紀初頭のさまざまなエコロジー運動に遡る事ができると思います。
19世紀後半のヨーロッパは、ドイツを例にあげると、1890年から1910年の間に急速な産業化が行われ農業国から工業国へと大転換しました。しかし、ブルジョア中産階級の中にはこうした産業化を厭う急進的な反近代主義が起こりました。
「文明」や「産業」に対抗するものとして「自然」や「郷土」といったものが新たな価値観を持って自覚され、そこにはエコロジー運動やナショナリズムへの萌芽があったといえるでしょう。知識層の人々は思索、健康、やすらぎ、新しい生活などを求めて大都会から離れて自然の中ヘ脱出しました。
スイスの南端、イタリアとの国境近くの風光明媚なアスコーナはもともと19世紀後半からアナーキストや神秘主義者が集まる独特の土地でした。1869年にロシアのアナーキスト、ミハイル・バクーニンがアスコーナ近郊に住み始め、また1889年には自由主義の政治家アルフレート・ピオーダがアスコーナに神智学者のコロニーを建設しようと試みました。
その頃、オーストリアのフェルデスに自然療法家アーノルド・リクリが主催する日光浴サナトリウムがありました。この施設では、「太陽博士」と呼ばれていた太陽崇拝者のリクリが独自に開発した食事法、日光浴、裸足で過ごす事などの日課を通じて病気治療が行われていました。
リクリは「科学を信奉する医師たちからの迫害に煩わされながらも、『神経症の世紀』といわれた時代にあって、文明に反抗し、自然治癒法に即した医療術を編みだした。」(関根伸一郎「アスコーナ 文明からの逃走」三元社)といわれています。
1900年、この施設に滞在していたベルギーの資産家の息子アンリー・エダンコヴァン、ユーゴスラヴィアで音楽教師をしていたイダ・ホーフマン、そして、オーストリア軍中尉のカール・グレイザーらがミュンヘンで再会し、「現代の大都市の堪えがたさを確認し合い、いかにしてこの大都市から脱出するか議論を重ねた」といいます。(マーティン・グリーン「真理の山 アスコーナ対抗文化年代記」遠藤英樹訳。平凡社)
彼等はどこかに土地を求めてコロニーを作る事が解決にいたる道だと思い、二手に分かれて旅に出ました。そして最終的に辿り着いたのがアスコーナでした。
彼等はアスコーナの小高い丘「モンテ・ヴェリタ(真実の山)と名付けられた」を買い求めました。しかし、具体的な土地利用については意見が分裂しました。
ホーフマンとエダンコヴァンは土地を開墾、整備してお金持ちを対象にした自然療法サナトリウムを創設する考えでした。そして、ゆくゆくは、学校、芸術学校、果樹園、生活品のリフォーム工場などを建設する計画でした。彼らはこうした活動を通じて経済的自立をはかる事が重要だと考えたのである。
一方、グレイザーら(カールと弟のグスト・グレイザー)はホーフマンらの意見は「資本主義的」だと断固反対しました。軍人だったカールは軍隊の駐屯地ですでに「無拘束」というアナーキスト同盟を結成していた急進的なアナーキストであり、個人の財産所有を否定し、コロニーに文明の利器を一切持ち込むことを禁止しようと考えていました。
カールはモンテ・ヴェリタはフランスの空想的社会主義者シャルル・フーリエの思想に基づいたものになるべきだと主張しました。(遠藤氏前掲書)(1772年に生まれたフーリエは「四運動の理論」という本の中で自由恋愛にもとづく理想社会を構想しました。後にシュルレアリズム芸術運動を行ったアンドレ・ブルトンがフーリエの思想を高く評価していた事は知られています。フーリエの思想はアナーキーなものでしたが彼は美食家でありましたから菜食主義の理想とは無縁な革命理論だったわけです。)
カール・グレイザーはアスコーナを離れて近くの土地で独立しました。彼は手作りの家具や生活品を使って質素な暮らしを始めました。弟のグストも兄に劣らぬ束縛を何よりも嫌う自由人であったのでアスコーナを去りました。
ホーフマンとエダンコヴァンはアスコーナの丘に様々な施設を建設し、お金持ちの客をヨーロッパ中から呼び寄せてサナトリウムを運営しました。そこでは厳格な菜食主義が義務づけられ、酒、乳製品、皮革製品などの使用も禁止されていました。また、リクリの日光療法に似た裸体での農作業、日光浴などの日課もありました。

グスト・グレーザーはアスコーナの人々の中でもある意味で最も興味深い人物です。
グストはハンガリーのクローンシュタットで生まれました。父親は裁判官でした。グストはギムナジウムを退学して芸術家の勉強を始めました。彼はいつも変わった格好をして「肉や調理された食物をどうしても食べず家族や友人を困らせた」(グリーン前掲載書)といいます。
前述のように、グストは兄のカールらと一緒にアスコーナの丘へ自由の天地を求めて旅立ったわけですが、それも挫折し、アスコーナを離れた後、1901年にクローンシュタットに戻ったグストは徴兵を拒否して五ケ月間投獄されてしまいました。
出獄してからは詩を発表して、再びアスコーナに戻ります。一旦はアスコーナを離れた身でしたが、アスコーナは彼にとって居心地の良い場所だったのでしょう。
ホーフマンとエダンコヴァンが作ったモンテ・ヴェリタの立派な施設に暮らす事はありませんでしたが、グストはアスコーナの丘の周辺にあった岩穴に住んで人から貰ったものや木の実を食べて生活しました。
彼の家には寝る為に地面に敷いた数枚の板と、果物の種を投げ入れる飼葉桶しかなかったといいますから極めて質素な自然人の生活だったと想像できます。
しかし、グストはアスコーナに定着する事はありませんでした。彼は再びアスコーナを離れて放浪にでかけました。1912年にグストはライプチヒのワンダーフォーゲルのグループに招かれました。
当時、ワンダーフォーゲルの運動はとても活発になっていました。グストの詩は彼等の機関誌に掲載されました。グストは詩、絵画、ダンス、講演、執筆、朗読などを通じて自己表現しましたが、それは素朴で時には笑いを誘うものだったといいます。また、グストは「老子」の翻訳にも没頭しました。
彼は毎日曜日に集まってくる人々に話をする「森の瞑想」を行っていましたが、戦争が勃発すると彼の立場は難しいものになり、 シュトゥットガルト当局は「森の瞑想」を禁止しました。その後、この集会は滞在中の家で行われるようになりましたが彼は再び逮捕され軍の拘置所に入れられてしまいました。
グストは「祖国」「文化」「キリスト教」を三つの敵とみなし、戦争反対の闘争を呼びかけ、その後も何度も逮捕されました。

ヨーロッパで戦争が活発になると、心の平穏を求めてこの社会から脱出したいと望む「生活改革」運動の若者たちが台頭しました。ドイツにはいくつかの菜食主義コミューンが出来、グストは彼等にとってまさに手本となる存在でした。
1921年、グストは若者たちとコミューンで生活を始め、彼等は「青年民族共同体」と名乗り手作りの生活用品のワークショップを始めました。しかし、1926年までにグストは「政治的な破壊活動分子」として全ドイツから追放され、再び放浪生活に戻ったのです。
グストはアスコーナの多くの人々同様にもちろん菜食主義者でした。
「彼はどのような形態であるにせよ生命というものに畏敬の念をもっており、自分の生命維持のために、殺されたものを食べることを拒絶した」(同前)
グストはヘルマン・ヘッセの東方に巡礼する秘密結社の不思議な話を書いた小説「東方巡礼」に登場するレーオという人物のモデルになった事で有名になりました。

ヘッセはアスコーナを訪れていた文化人の一人でした。ヘッセとグストは実際に交流があり、ヘッセはグストに憧れていたのです。ヘッセは「東方巡礼」の中でレーオをこんな風に書きました。「…どんな動物でも彼になついた。私たちはたいていいつでも、レーオゆえについて来た犬を一匹つれていた。彼は鳥をならし、チョウチョウを誘いよせることができた。東方へ彼をひきつけたのは、そろもんのかぎによって鳥のことばを理解したいという願いからであった」(高橋健二訳。「ヘルマン・ヘッセ全集 8」新潮社)また、次ぎのようなグストを彷佛とさせるレーオの描写があります。「その人は私のそばを通り過ぎた。開いた青いシャツから首をまる出しにして、無帽の頭を快活にはずませていた。その姿は美しく陽気に夕暮れの小路をふわりと下って行った。薄いサンダルか運動靴をはいているのか、ほとんど足音もきこえなかった」(同前)「それは乾燥果実で、幾つかのスモモと半分に割ったアンズだった。彼はそれをつぎつぎと二本の指でつまんで、一つ一つちょっとおしつけたりさすったりして、口に入れ、長い間かんで味わっていた」(同前)

実際のグストは長髪でヘアバンドをして袋地の上衣をまといサンダルばきで野菜や果物の入った袋を持っていたといいます。ヘッセはレーオを動物たちの友達で果物を好んで食べるフルータリアンとして描いたのです。グストが発行した絵はがき(それは森の中で丸い食卓を囲んで食事をしているところが描かれている)の裏にはこんな風に書かれていました。「来たれ、同志よ、私たちがごちそうするのは、やさしいものたちの苦しみから生まれたものではない。/光あふれる世界との友愛が、親密な木々が、私たちのためにそれをあつらえてくれたのだ。/身の毛もよだつあらゆる苦悩から抜け出たいとは思わないか。来れ、人間にふさわしい食事を私たちと分かちあいたまえ」(ウルリヒ・リンゼ「生態平和とアナーキー」内田俊一/杉村涼子訳。法政大学出版局)

グストは後世のエコロジストやヒッピーに多大な影響を与えた菜食主義アナーキストの父と言えるでしょう。(2006年)

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